- 2012年??月??日 - 通行人の記憶

悪魔は単純な存在だ。

「混乱に乗じて現れ、ただひたすらに暴れる」といった解説には「諸説ある」と付け加えられつつも、悪魔が単純であるという事実は通説であり、常識でもある。ところが、扱いやすそうな性質とは裏腹に、その腕力は相当なもので、一発でも食らえば命を落としかねない。
故に、悪魔と遭遇した時の対処法、なんてタイトルの本は信じるべきではないのだ。結局の所、力を持たない人間に可能な対処法は、しのごの言わずに逃げる事だけなのだから。

ありがたいことに、奴らは大して機敏でないので、逃げ切る事自体は難しくない。つまり、警察なり大学所属の魔法使いなりが駆けつけるまで耐え忍べば、後はどうとでもなる。一般市民が軽々しく「悪魔は逃げ遅れるとまずいタイプの通り雨みたいだ」なんて口にできるのは、力ある存在が職務を全うしているお陰なのだから。


それに、と内心でひとりごとを引っ掻き回しながら足を動かし続ける。そもそも、「混乱に乗じて悪魔が現れる」と言うのであれば、なるべく平穏に暮らすよう心がければ良いのだ。自然災害はともかく、事故や事件は起こさないように、そして出来れば巻き込まれないように。何か起きても冷静であるよう努めればいい。

だが、それでも駄目な時にはどうにもならない。そうなったら、群衆と一緒になって慌てふためくのではなく、素早くその場を離脱する事をだけを考える。そう肝に銘じながら日々を暮らしてきたためか、あるいは運が良いだけなのか。実際に自分の目で悪魔を見た事は一度も無いまま、ここまで生きてくることが出来た。
例によって、悪魔が出た、という叫び声を耳に掠め取りながら走る最中、フードを被った魔法使い数名が駆け抜けて行くのをすれ違い様に見たのが、つい先ほどの事である。


さて、と直前までの出来事を過去の物にしてしまって、これからどうするかを思案する。ここから家まではかなりの距離があるが、駅前に停めてある自転車を取りに戻れば、間違いなく戦闘に巻き込まれるだろう。一般開放されている大学図書館で時間を潰す他ないか。と、緩やかな坂になっている石畳をしぶしぶ歩いて行くことに決めた。

……国立大学のうち、魔法の研究を主に行っている大学は数箇所ある。そして、それぞれの大学近辺を、大学に所属する魔法使い達が守る事で、この国の平和は保たれているのだ。当然、大学が常に多忙を極め人手不足である事は言うまでもない。だからこそ、魔法使いであることを公言している者たちは、問答無用で大学に所属させられ、治安維持のために奔放する事になるのだろうが。
とは言え、適度な緩さを残すこの地は、誰も彼もを強制的に引きずって連行するほど荒んではいない。魔法使いである事を隠して生活している人間は少なくないし、それを罪に問われる事もない。そこの判断は各々の自由なのだ。どちらにせよ、義務教育の過程に”匿名で”魔法使いか否かのアンケートを受ける事が義務化されているため、統計は取れている、らしい。

今まさに目指している目的地ことオルタヴォルタ大学は、特に規模が大きく、魔法使いが守っている範囲の広さでも有名だ。どちらにせよ、どこの大学も激務であることに変わりはなく。……薄情かもしれないが、他人事でよかったと思わざるを得ない。


悪魔との戦いを実際に目撃した事は無いが、その討伐については聞き齧った事がある。大抵は、空中から集中攻撃を行う側と、その攻撃が一般人に及ばないよう守る側の2手に別れるのだとか。腕力はともかく、動きの鈍い悪魔を相手に、魔法使いが後れを取ることはまず無い。つまり、大怪我をするようなことも無いのだと思う。


そう。無いはずだ。そのはずだ、が。これはなんだろう。目前に点々と落ちる赤い跡。大きな鳥が過ぎ去ったように影が落ち、反射的に空を凝視する。魔法使いが1人、ものすごいスピードで大学へ戻って行くのが見える。


−− ひとつ。鐘の音が大きく鳴り響いた。


ハッと考え事から叩き起こされて、一気に情報が流れ込み脳を圧迫する。やけに騒がしい。焦げ臭い。いったい何が起こっている? 状況把握のために振り返ると、先ほどまで滞在していた辺りから、空にむかって手を伸ばすような、あるいは、地上へ垂らされた救いの糸のような、不気味な色の煙が、まっすぐ立ち上っている……。と思った矢先、とんでもない眩しさに思わず目を覆った。悲鳴が聞こえる。狼狽する。体全体にワイヤーを巻かれたかのように、動けなくなる。呼吸が浅くなる。自転車は無事だろうか? 目が乾く。足を引きずるように一歩後ろへ下がる。途端に恐怖が押し寄せて、力が抜けたところへ、地響きが襲い来る。立っていられない。これは、まさか。


「悪魔の大量発生だ!」


現実逃避しかけた頭を思い切り殴りつけるような言葉が飛ぶ。大量発生だって? 何故今? どうしてこの場所で? 予測はどうしたんだ、そんな話聞いてないぞ! なんて、そんな事考えても仕方がない。自分の信条を思い出せ。冷静であれ。そして、力を持たない自分に可能な対処法は、逃げる事のみだと。そう反芻しているうちにも前方から何人かが逃げてくる足音が聞こえる。自分も、とにかくこの場から離れなくては。と、脚へ走るよう指令を飛ばしたその瞬間、目と鼻の先に黒い影が現れた。考える間もなく慌てて反対方向へ駆け出そうとするが、そちらには先程耳にした足音の主達が既に辿り着いており、おそらく自分と同じ顔で、絶望したと言わんばかりの表情で、立ち尽くしている。

大学へ向かう道には悪魔がいる。駅へ向かう道へ戻ったとて、同じだ。よりにもよって、左右に逃げ道は無い。凍り付くような感覚が滲む中、化け物が笑った、ように見えた。悪魔を実際に見るのは初めてだが、こんなに恐ろしい姿をしているとは思ってもみなかった。走馬灯のように、教科書の文言が脳裏を駆け巡る。ああ、そうか。そもそも、悪魔に決まった姿形など存在しないのだった……。


誰もが助かろうとして、押し合いながら身を縮こまらせる。危機的状況の中にあれば、大抵の人間は他人を盾にしてしまうものだ。……それでも、ここに居る者は誰一人として助からないだろう、という予感が脳を刺す。次いで諦めが心に染み出し、我ながら、あっけない、醜い最期だな……と、目を閉じかけた。

その瞬間、頭上に人影が落ち、突如現れた大岩が悪魔の脳天を直撃した。背後から悲鳴が上がって、数名が驚きのあまり地面に倒れ込む。そんな中、大岩を落とした張本人がゆったりと地上へ降りて来て、悪魔の居た辺りを一瞥した。驚くほど幼い顔立ちの少年だった。勘違いでなければ、中学生くらいの子どもにも見える。と、緊張感の無い感想を抱きながら現実感の薄さに呆然としていると、少年がフードを取ってこちらに近づいて来る。


「大丈夫ですか? 怪我は?」


自分と、背後の大人達にかけられた言葉は、ひどく優しい。その表情は心配を絵に描いたようで、なんだか申し訳ない気分になってくる。何か応えなくては、と口を開きかけたと同時に、斜め後ろから突然肩を押され、思わずよろけた。なんだ、と僅かな苛立ちを滲ませて顔を上げると、突如として前に進み出た女性が、無遠慮にも少年の頬に触れたところだった。思わず目を見張ったが、当事者である少年は落ち着いた表情で首を傾げるだけに留まっている。


「ええと……」

「あなた、怪我をしてるじゃない。……大丈夫なの?」

「え? ……あ。その、俺は大丈夫です。とにかく、早く逃げましょう。ずっとここに居たら、危ないですから」


確かに、よく見てみれば、前髪の狭間から赤くなった皮膚が覗いているのが分かる。額か、頭部からの出血によるものだろうか。相当痛いだろうに、当の本人は怪我の事など失念していたらしい。一瞬バツの悪そうな顔をして、誤魔化すようにフードを被り直してしまった。

そして、その場にいる人間へ「大学まで案内します」と声をかけたかと思うと、先へ歩いて行ってしまう。大人達が、少しうろたえながらも、その後へついて行こうとした、その矢先。「ハル!」という呼びかけと共に、また1人の少年が勢いよく降りて来る。ハル、と呼ばれたのは、先ほど悪魔に大岩を落とした少年のようだ。


「あ、コル」

「あ、コル。じゃない! あのさ。前にも言ったと思うけど、単独行動はやめてくれる?」

「あはは、ごめん」

「笑えば誤魔化せると思うなよ……。で? これはどういう状況?」

「今から大学に向かうってこと! 皆さん、そのまま俺たちについて来て下さいね」


そう言って歩みを再開させた少年達は、ひとまず情報交換を始めたようだった。2人の関係は気安いもののようで、そのやりとりは、どこか、学校の休み時間を連想させる。会話の内容自体は至って真面目なものだが、緊迫した状況の中、ほんの少しの日常感に救われる心地がした。そうして、石畳を踏み締めているうちに、体を締め付けるワイヤーも、呼吸の浅さも、見る影もなく消え去っていくのが分かる。彼らの背中を見つめながら、心配と、情けなさと、ほんの少しの安心感の中で、自分は助かったのだ、という実感が足先から這い上がってくるのを感じていた。