- 2021年6月10日 - 少年の記憶

放課後になると、みんなが楽しそうに教室を抜け出していく。勿論、自分の席に留まる子も少なくはないけれど、その表情はどれも笑顔ばかりだ。

公園で集合な、とか、これから習い事だ、なんて話し声が聞こえて来る陽だまりの中。とりとめもない会話の群れに寄り添ったまま泳いでいたくて、ぼくは椅子から立ち上がれずにいた。


1番前の、窓際の席。最前列は不人気だけれど、先生は案外前の席を注視しないものだと知っている。この箱の中で最も居心地の良い席。可もなく不可もないクラス。大好きな図書室。暇を潰すのに最適な宿題たち。

ぼくにとって学校は、限りなく狭い世界の1番外側で、それなりに好きな場所だった。沢山の友だちが居るわけではなくとも、ただ、家の外に居るという事実がぼくを安心させた。


普段であればもう暫くここで微睡んでいられるけれど、残念ながら今日はそういうわけにいかない。僅かな緊迫感に誘われて廊下に目を向けると、数名の魔法使いが慌ただしく通り過ぎて行くのが見えた。

この学校のすぐそばに「悪魔の大量発生」の前兆が見られる、と、警備が始まったのが一週間程前のこと。通学路に悪魔が出現し、軽いパニックが起こったのは、たった数日前のことだ。とは言え、昨日の時点で「悪魔の大量発生」への対応は終わっていて、既に学校と通学路は安全な状態に戻った、という事になっている。それでも、9年程前にとある事件が起こって以降は、最終確認を念入りに行うのが決まりになっているのだそうで。今日がその最終確認日、という事なのだ。


念には念を、という考えは多くの保護者も同じようで、今日も今日とて迎えに訪れる母親父親の姿をちらほらと見かけることができる。原因はどうあれ、大半の生徒にとっては、家族との帰り道は新鮮で楽しいもののようだ。

けれど、ぼくにとっては違う。母の送迎自体、今に始まったことではなかったから。

彼女は極度の心配性で、単に、僕が人より少し風邪をひきやすい、というだけで、毎日必ず迎えに来る。それは、入学してから今に至るまでずっとそうなので、放課後の延長線にあるはずの子どもの時間を、ぼくは未だに知らない。

そんな母にも、仕事の都合が合わずに迎えに来れない日が、年に数日は絶対に存在するけれど。そんな日は、なるべく隣近所に住んでいるクラスメイトと帰宅する事と、帰ったらすぐに家の電話から母へ連絡を入れる、というルールが課せられているので、寄り道をする余裕があるはずも無い。


だけど、今日は違う。

校内に緊迫感が漂う今に限って、母の仕事は忙しい時期にあった。迎えに行けるか分からないけれど、まだ最終確認が済んでいない状況の中、子どもだけで帰宅させるなんて……。と、心配性の母が頭を抱えたのは当然と言えば当然だったので。もしかすると、学校を休むよう言われるかもしれない、なんて。昨日の夜は考えていたのだけれど。

予想外にも「もしお母さんの仕事が早く終わっても、今日はお迎えに行かないから。魔法使いさんと帰ってきてね」と告げられたのが今朝の事だった。


驚いたことに、母は、大学所属の魔法使いに僕の帰宅に付き添うよう依頼したらしい。……詳しくは分からないけれど、当然、個人に魔法使いを派遣するのは難しいはずだと思う。彼らはいつも平和と安全のために忙しなく働いていて、個人個人に手を伸ばすにはあまりにも人手が足りない、と前に先生が言っていたから。

それなのに、母の無理難題を叶えてくれる魔法使いがどうやら存在していて、今日のぼくは1日の残り時間を彼と過ごす事になるらしかった。



廊下を早歩きで進んで約束の裏門に向かうと、そこには既に、ぼくを家まで送ってくれるという魔法使いの姿があった。


「ごめんなさい。遅くなりました」

「あ、授業おつかれさま。ぜんぜんいいよ。気にしないで。……えーっと。クレイ君、で、合ってるかな?」

「はい」

「……そんなに不安そうな顔しなくても大丈夫だよ。正式に雇われた身だからね。ちゃんと君を家まで送り届けるよ」


目の前に居る彼、もとい、魔法使いさんについて、知っている事は皆無と言っても良い。

容姿から分かることもおおよその年齢くらいなもので、おそらく中学生くらいだとあたりをつけて会話を続けた。


「それじゃあ、暫くは魔法使いさんの側に居ればいいですか?」

「うん、そうだね。……えーっと。先生から聞いてるだろうけど、今日は最終確認の日なんだ。本当に学校や学校周辺が安全になったかどうか、しっかり調査して確認する日なんだよ」


彼は言った。生徒が全員帰宅した後に、校内に滞在している魔法使い達が作業を始める運びになっているが故に、今日は生徒全員が家まで帰ったことを確認する必要がある、と。


「だからね、教職員の手伝いのために数名の魔法使いが校門や通学路に立つ事になったんだ」


つまり、彼はそのうちの1人で、その仕事が完了した後に、ぼくを家まで送り届ける運びになっているらしい。

だから、帰宅時間はいつもより遅くなるだろうけど、大丈夫かな? 待ってられる? と彼は心配そうに説明を終えた。おおよそ事前に母に聞いていた通りの話だったので素直に頷いて了承の意を伝える。


「ならよかった。それじゃあ……」


はい、と突然2つの包みを渡されて、思わず首を傾げる。彼は少しだけ笑ってから、君のお母さんに許可はもらってるよ、と付け加えた。包みの中には四角い何かが入っている。


「これ、クレープ?」

「そうそう。さっきお店で買ってきたんだ。生地で具が完全に包んであるから、食べやすいかと思って」


こっちが甘いので、こっちがご飯系のやつ。好みはお母さんに聞いたから、多分好きだと思うけど、嫌だったら残してね。あ、痛まないように魔法で冷やしてあるから慌てて食べなくても大丈夫だよ……。等、包みに関しての説明を早々と終えた彼は、待ってる間、絶対お腹が空くだろうから、と言ってまた笑った。

あらゆる気遣いが優しさに溢れていて、ありがたいと思う。だけど、そんな事よりも。……ぼくにとってこれは、初めての買い食い、みたいなものだ。厳密には違うけれど、夢見ていた放課後の後の延長線が、今、手の中にあるようで、少し怖いような気さえした。



大人たちが仕事をしている様子を眺めながら、包みの中身に齧り付く。言われた通り、2時間もしないうちに空腹が訪れて、甘い方を先に平らげた。また数時間後には、ご飯系、と言われた、ハムと卵のものも平らげて、それでも少しお腹が空くなぁ、なんて思っているうちに、辺りも僅かに暗くなって来ていて、ようやく彼の仕事も終わったようだった。


「よし、じゃあちょっと寄り道して帰ろうか」

「え? で、でも」

「大丈夫だよ。20時までには家に送り届けてくれ、って言われてるけど……。クレイ君、お腹空いてるでしょ?」

「うん……」

「だよね。それに、この時間になっても連絡が無いって事は、君のお母さんは今もお仕事中なんだろうし……」


そう言われて、自分の元にも母からの連絡が届いていない事を思い出した。こういう日の母は、深夜まで働き詰めになったり、朝方にようやく帰ってくる事が多い。

なので、母の帰宅が遅い日のぼくは、大抵は家にある食パンを焼いて夕食とする。というのも、1人で火や包丁を使う料理を行う事は禁止されているので、自分にできる範囲で食べるものを用意するとなると、どうしても食パンに辿り着くのだ。母もそれを理解しているので、家には常に食パンと、パンに乗せて焼いたら美味しい幾つかの具材がストックしてある。

母は僕を心配して家に置いておきたがるものの、食事については大して厳しい方では無いので、そこだけは助かっている。もし、あえて決まりを上げるとしても、三食きっちり食べる事と、おやつを食べ過ぎない事。その2つくらいだ。


「帰ったら食パン焼いて食べるんだよね? だったら何か美味しいものを食べさせてやってくれって、お金預かってるからさ。何食べたい?」

「えっと、じゃあ……」


遠目に見える飲食店の看板を徐に指差して見せると、彼は嬉しそうに笑った。


「ああ、あのお店って、すぐ側に公園がある所だよね? ほら、駅前の。大きい滑り台のある……」

「そうなんですか? ……あ、ごめんなさい、僕、その。行った事がなくて」

「…………折角だし、公園にもちょっとだけ寄って行こうか」

「え? いいんですか?」

「うん。もちろん」


じゃあ行こう、と、当たり前のように差し出された手のひらを思わずじっと見つめる。

放課後に公園で遊ぶ、なんて。なんだか別世界の事みたいに思えた。



https://youtu.be/q5LrIvopmZc