- 2021年8月16日 - 少年の記憶/逃げ出すための足先

「えっ、クレイ君!?」


真っ白な髪が横切りかけて、慌てたように振り向いた。彼にとっては最寄駅らしいこの場所で、ぼくを見つけた水色の目が困惑したように見開かれる。
夏休みも終盤とは言え、まだまだ照りつける陽は眩しく暑苦しい。そんな中、過保護な母を連れずに1人きりで座っていたのだから、驚くのも無理は無いと思う。


「なんでこんな所に、1人で……? それに、その靴……」


スッと下された視線の先で、汚れた靴が気まずそうに軋んだ。やっぱりバレたか、と内心で言い訳を考えつつ、自分の足元を見やる。所々擦り切れた上靴は、勿論、本来は外出用ではないのだけれど。だからと言って、普段学校で履いているもの、というわけでもない。これは、少し前に母が捨てた古い上靴を、こっそりゴミ袋から回収しておいたものだった。

ぼくは普段から、母の過度な心配性によって、それなりに面倒な決まりの内側で暮らしている。当たり前のことだけれど、それは夏休みだって例外ではない。母が仕事に行く隙を見て外出しようにも、念の為、と言って、外履き達は全て高い場所へと仕舞い込まれてしまっているから。……だけど、ぼくは母が思うほど子どもでもないので、合鍵の隠し場所なら随分前から知っているのだ。だから、問題があるとすれば、外を歩くための靴が無い事だけだった。


「ぼくにとっては、出かけるための靴なんだ」

「……お母さんに言わずに出てきたの?」

「うん。だって、言ったら余計、家から出してもらえないでしょ?」

「……そうだね」


だけど、この事がバレたら、もっと窮屈な思いをする事になるんじゃ、と、コル君は言った。そんなのは分かりきっていて、それでも、今のところは上手くやれているのだ。例えリスクがあったとしても、家に縛り付けられる生活は息が詰まるようで、耐えられない。
……本当は、外に出ても出来る事なんて何もないし、やりたいことだってない。だから、こっそり抜け出す必要なんて無いでしょ、と言われたら、何も言い返せやしない。だけど。


「1人で外に出たのは何回目?」

「うーん、この夏休みだけだと、合わせて3回くらいかな」

「そっか」


コル君は少し考えこんでから、なにか言いかけて、結局黙ってぼくの隣に座った。


「……お母さんに言う?」


ずるいかもしれない、と思いながら聞く。コル君は優しいから、きっと味方をしてくれるはずだと。そうでなくとも、頭ごなしに否定したり、無理やり連れ帰ったりはしないと、信じていたから。

期待通り、言わないよ、と彼は言った。だけど、人混みに紛れて消えてしまうような小さい声じゃない。はっきりと、誓うような響きを持って、言葉はぼくへと届いた。


「……君の年齢なら、1人で外出するのは、そこまで珍しい話じゃないし。勿論、親に言わずに出て来る子もいれば、ちゃんと伝えてから出て来る子もいて……色々だけど」

「うん」

「……君の場合は、ちゃんと伝えてから外出したくたって、それすら許されていないんだものね」


そうだった。母はぼくが家にいるか、そうでなければ目の届く範囲にいないと安心できないらしいから。例え位置情報が分かるものを持っていたって、単独行動は許されない。事前に伝えれば閉じ込められる。だとすれば、黙って出て来るしかないじゃないか。

それにさ、と続いた彼の言葉を聞いて、思わず目を見開く。コル君は、ぼくが、人通りの多い明るい道を選んで行動していると確信しているようだったから。……そして、その読みは当たっている。あくまでも、クラスメイトがお母さんと約束したと言う「決まりごと」を参考にしただけで、自分でそうしようと決めたわけでは無かったのだけれど。


「でも、まあ。コソコソせずに済むならその方が良い、とは、思うんだよなぁ……」

「ぼくだって。そうしたいのは山々だけど」

「……僕が君のお母さんと話をつけて、僕の付き添いがあれば、堂々と外出できるように許可を貰う、とか。……どうかな?」

「…………えっ?」


コル君のことは信用している。初めて会ったあの日からずっと。一緒にいると、姉の事を思い出して、どこか懐かしい気持ちになるから。だけど、外に連れ出してくれる上に……


「……だから1人で出かけるな、とか、言わないの?」

「うん。だって、僕が止めたところで、君は自分の足で外へ出て来るでしょ?」

「それは……、うん」

「だよね。だから、これはお願いなんだけど。1人で外に出る時は、お母さんに言えない代わりに、僕に、外出するよ、って連絡してくれないかな?」

「……分かった」


頷いたぼくを見て、彼は少し複雑そうな顔で微笑んだ。


帰り道、手を引かれながら思う。コル君がぼくを連れ出してくれるのなら。きっと、色々な場所へ行くことが出来ると思う。そうしたら、いつか、この古い上靴は、ぼくにとって要らない物になるのかもしれない。

それでも、「念の為」に、これは部屋の片隅に隠し続けておこうと決めた。もし、いつか、コル君に何かあったら。その時には、いつだって、駆けつけられるように。